このお経の特徴として、思想や観念のみでなく、しっかりと現場の具体例を挙げていることが挙げられます。
つまり、なんとなく「観音さまが救ってくださる」というのではなく、「こういう危機的な状況で、このように祈れば、このように救ってくださる」と細かく示されているのです。
様々な状況を次々と例示することによって救済の力が幅広く及び、最終的にはどんな状況においても救いの声は届くということになります。観音経では、七つ災難を挙げて説明されています。まとめて七難といって七難八苦という言葉ののもとといえます。戦国武将山中鹿介幸盛は「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と願ったそうですが、出典の観音経の内容を見る限り、私はご勘弁願いたいです。
それでは、怒涛の苦難の連続を見ていきましょう。
若有持是 観世音菩薩名者 設入大火 火不能焼 由是菩薩威神力故
七難その1。火難。観世音菩薩の御名を心に持つ者は、大火に包まれても観音さまの力によって焼かれることはない。
若為大水所漂 稱其名號 即得浅處
七難の2。水難。大水の中に漂流したとしても観音さまの御名を呼べばすぐに浅瀬となって溺れることはない。
若有百千萬億衆生 為求金 銀 瑠璃 硨磲 碼碯 珊瑚 琥珀 眞珠等寶 入於大海 假使黒風 吹其船舫 飄堕羅刹鬼國 其中若有 乃至一人 稱觀世音菩薩名者 是諸人等 皆得解脱 羅刹之難 以是因縁 名觀世音
七難の3。羅刹難。金銀などの財宝を求めて海に漕ぎ出したものの台風によって羅刹や鬼の住む島に流れ着いた。しかし一行の中に一人でも観音さまの御名を唱えるものがいれば一行はその難から逃れることができる。
若復有人 臨當被害 稱觀世音菩薩名者 彼所執刀杖 尋段段壊 而得解脱
七難の4。王難。刀などの武器で傷つけられそうになっても、観音さまの御名を唱えればそれらは壊れ助かる。
若三千大千國土 滿中夜叉羅刹 欲来惱人 聞其稱觀世音菩薩名者 是諸惡鬼 尚不能以 惡眼視之 況復加害
七難の5。鬼難。世界中の夜叉や羅刹に取り囲まれたとしても、観音さまの御名を唱えればそれらは悪意を失い、危害を加えられることはない。
設復有人 若有罪 若無罪 杻械枷鎖 檢繋其身 稱觀世音菩薩名者 皆悉斷壊 即得解脱
七難の6。枷鎖難。罪の有無に関わらず捕らえられて鎖で縛られたとしても、観音様の御名を唱えればそれらは壊れ自由となる。
若三千大千國土 滿中怨賊 有一商主 將諸商人 齎持重寶 經過嶮路 其中一人 作是唱言 諸善男子 勿得恐怖 汝等應當一心稱觀世音菩薩名號 是菩薩 能以無畏 施於衆生 汝等若稱名者 於此怨賊 當得解脱 衆商人聞 倶發聲言 南無觀世音菩薩 稱其名故 即得解脱
七難の7。怨賊難。隊商が財宝を積んで盗賊が山ほどいる中を進むとしても、その中の一人が皆に観音さまの御名を唱えるようすすめ、皆がそれに応じ観音様の御名を唱えたならば、無事に旅を続けることができる。
無盡意 觀世音菩薩摩訶薩 威神之力 巍巍如是
無盡意菩薩よ。観音様の力はこのように偉大なのである。
以上、お釈迦さまは無尽意菩薩に対して七つの例を出して観音さまの救いの力を説かれました。
いかがでしょうか。観音さまが何とも頼もしく有難い存在であることがわかります。本当にありがとうございました。
…と締めくくりたいところですが、この部分を最初に読み下したとき、私の本心は少し複雑だったことを書いておきます。
というのは、人々の現実的な自助努力をあえて描かず、ひたすら観音さまの威神力を強調していること、言い換えれば、災難に遭った人々が現実と向き合い戦うことを放棄して一心に観世音菩薩の御名を唱える描写に終始していることに違和感を感じたのです。
観音経が観音さまの功徳を説きあかすためのお経なのだから当然といえば当然なのですが、この違和感の原因は結局「信仰心」なのだと思います。文中の登場人物の信仰心とそれを読む者の信仰心の温度差が大きいほど、強くなるでしょう。これは内容がファンタジーであり現実離れ(現代離れ)していることとは本質的には関係がないところです。
他に何も考えない、ただひたすら観音さまの名を呼び助けを求める…その点においてどこまで「一心」となれるか、心から観音さまを信じることができるか。良いか悪いかは置いておいて、それがこの七難からの救済の場面のカギと思われます。
今の私の考えは、信じるもよし、信じないもよし、信じることによって心が楽になるのであれば信じた方がよいというものです。自分でできるだけのことはやってあとは観音さまにお任せするといってもいいかもしれません。
だいぶふんわりとした考えですが、これは「信仰はあくまで個々人の中にのみ芽生え育まれるものであり、ただ個々人の心を安んずるものである」という大原則によるものです。逆に言えば、信仰を強要するということ・信仰して当然という態度をとることは原則を無視した行動といえます。信じろと言われてはい信じますという人はいません。あくまで自分の中で「どうやら信じられるぞ」とぼんやりとした信仰を深めていくしかないのです。
そういった意味で、私はこの観音経の存在をお知らせし、その内容について自分のできるかぎりの力で説明することしかできませんし、するつもりもありません。ことさら観音さまを信仰することを勧めません。ただ、このお経に触れることによって、少しでも心が楽になったり、明るくなったなら、これはもう望外というしかありません。
蛇足の方が長くなって恐縮です。今回は七難という外的な苦難についての説明でした。次回は人の心の内面についての話です。
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